法話4月

彦根城 撮影: 超空正道

さん じん しゅ

 人間が生きていく上で、必要不可欠なものはいくつかあります。たとえば、酸素や水がなくては駄目でしょう。これは、他の生き物でも同じですが、それとは別に、人間だけに必要なものはないかと考えたときは、いかがでしょうか。
 これには人によって、多少意見が分かれるかもしれませんが、もし、道徳や宗教がなかったら、他の生物とは違って我欲が極端に強い人間は、もうとっくの昔に滅びていたのではないでしょうか。「腹を満たしたライオンは狩りをしない」といいます。ところが、欲の深い人間は、明日の分まで、いや、何年も先までも、食料やお金を貯めておこうとします。これでは、当然ながら奪い合いが起こり、喧嘩をし、果ては互いが殺し合い、人間の歴史は、戦いの歴史といっても過言ではありません。
 ところが、人類が滅びるところまで行かなかったのは、人間には道徳心と宗教心が備わっていたからであると考えられます。道徳は、人間の利己的、本能的欲求から起こる軋轢あつれきを包括している現実と、正義・真理・友愛・平等などといった理想との相剋そうこくを調整し、社会的成員にふさわしい行為を選択するようにしむけるものです。
 一方、宗教は、神仏など、人間を超越した存在を信じることによって、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、安心や幸福を与える役割を果たすものです。そして同時に、非道徳的行為を自ずから抑制しようとする力を与えるものでもあります。
 ただ、宗教は、火にたとえられる場合があります。人間が生きていく上で、火もなくてはならないものであり、人間しか扱えないものです。ところが、この火というものは扱い方を間違えると、火傷をする怖れがあります。宗教も、正しい指導者がついて、うまく機能すればいいのですが、時に、人の不安につけいり金集めをする邪教もありますから注意が必要です。
 では、宗教を信仰するということはどういうことなのかを考えてみます。宗教により考え方は異なると思いますが、私どもは浄土宗なので、とりあえず、その伝統にのっとって説明をいたします。
 『観無量寿経』に、「もし衆生あってかの国(極楽)に生ぜんと願せば、三種の心を発すべし。すなわち往生す。何等をか三とす。一つには至誠心しじょうしん(身口意が一体となった信仰)、二つには深心じょんしん(疑心なき信仰)、三つには回向発願心えこうほつがんしん(一切の行いを浄土往生に振り向けていこうという信仰)なり。三心さんじんを具する者は、必ずかの国に生ず」とあります。
 つまり、阿弥陀仏へのこの三つの信仰心が備われば、浄土往生への心が確かなものとなり、思い悩む心から解放されて、安心あんじんが得られるというのです。
 そして、その安心を得たならば、自ずと起行きぎょう、《読誦どくじゅ観察かんざつ礼拝らいはい称名しょうみょう讃歎さんたん供養》といった身口意しんくい三業さんごうでの実践行を修し、さらに作業さごう、《恭敬修くぎょうしゅ無余修むよしゅ無間修むけんしゅ長時修じょうじしゅ》という四つの修行態度(四修ししゅ)が必要とされます。
① 恭敬修 阿弥陀仏とその聖衆しょうじゅう(菩薩などの聖なる者のこと)を恭敬礼拝すること
② 無余修 もっぱら仏の名を称え他の行いをまじえないこと
③ 無間修 行を間断させず、また煩悩をまじえないこと
④ 長時修 恭敬修・無余修・無間修を生涯修め続けること
 以上、学問として、念仏信仰を細かく理論づけていくとこのようになるわけです。しかし、法然上人の遺訓とされる『一枚起請文』には、「往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく、往生するぞと思いとりて申すほかには別のさいそうらわず。ただし三心四修と申す事の候は皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠り候也。(中略)ちしゃのふるまいをせずして、ただ一こうに念仏すべし」とあります。つまり、「極楽往生のためには、〝念仏で必ず往生できるのだ〟と思い定めて申す、それだけである。三心や四修も念仏する内に自然とそなわる。智者ぶった振る舞いをすることなく、ただ一筋に念仏をするがよい」というのです。
 人間にとって、酸素や水はなくてはなりません。なくてはならないものだからこそ、水も空気も汚さないということの方が大切です。宗教も、自分自身においては安心を、また世界は平和であることを目指すものであるという信念さえぶれなければ、小難しいことはいりません。南無阿弥陀仏、ただそれだけでよいのです。
    (潮音寺 鬼頭研祥)

 


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